前回は、世界初のゲーム専門会社であるアタリがどうなったかというのを、その歴史と共に書きました。

ゲーム会社の「アタリ」はそれからどうなったのか - Timesteps

さて、その途中で、日本にもそのアタリの支社である「アタリジャパン」というものが設立されたということを書きましたが、ここがただの日本支社ではなく、ゲーム史にとってもなかなか興味深いところなのです。というわけで、今日は「アタリジャパン」について書いていこうと思います。ちなみに今日は筆者の主観が強く、やけに特定ゲームタイトルの名前が出てくるので(特に1990年代)ご了承ください。


Atari 2800 at Super Potato
Atari 2800 at Super Potato / Ian Muttoo



アタリジャパンとナムコ


アタリジャパンは、1973年、アタリ社の日本法人として設立されます。これは日本のみならず、極東での独占販売権を持つ拠点とされました。本社があったのは、東京都練馬区の中村橋。私事ですが、ここは自分の出身地です(さすがにアタリ設立時にはまだ生まれていませんが)。この練馬区の西武池袋線沿線は現在もアニメスタジオが多かったり、マンガ家が在住していたりと、昔から文化的な人が多く集まっていたようです。

しかし当初は日本にゲームビジネスというものが存在せず、まるで商売にならずに資金繰りに困り、国内販売で協力してくれる会社を探すことになりますが、そこで販売代理を引き受けたのが中村雅哉氏が設立した中村製作所。そう、後に日本だけではなく世界のアーケードゲーム業界に名を知らしめることになる「ナムコ」の前身です。ちなみにこの頃、ブッシュネルは来日し、アタリジャパン本社の前で中村雅也氏等と写真を撮っていたりします(『それは「ポン」から始まった』に掲載)。

ですがそれでもアタリジャパンの資金繰りは悪化し、アタリは中村製作所に100万ドル(当時のレートで3億円)でアタリジャパンを譲渡します。それから中村製作所はアタリ製品の独占販売権を得て、「ポン」や「スペースレース」を発売。そして大ヒットとなる「ブレイクアウト」(ブロックくずし)を輸入します。
中村製作所はアタリ製品に携わるうちに独自のゲーム製造技術を身につけ、エレメカの「F1」(後にこれのデッドコピーに対して裁判を行い、日本における初のゲームコピー訴訟にもなります)などを製造してゆき、社名も「ナムコ」と変更されます。そして1979年、タイトーの『スペースインベーダー』が社会現象となる大ヒットを起こし、そこから日本のアーケードゲームが事実上の幕開けとなると、ナムコは『ギャラクシアン』『パックマン』『ゼビウス』といった名作を生み出し、日本のみならず世界のアーケードゲーム市場に名を広めてゆくこととなります。


ナムコとの提携解消


しかし、、1982年から1983年にかけてアメリカでアタリショックが発生。アタリは業績不振に陥ります(前回も語りましたが、この頃にはすでにブッシュネルもアタリを去っています)。そしてその後アタリは分割され、アーケードゲーム部門が「アタリゲームズ」、ゲーム機部門が「アタリコープ」となりますが、ナムコはそのうちアタリゲームズの株を買い取り、提携を強化させます。アタリで製造された「マーブルマッドネス」(1984年)、「ガントレット」(1985年)も、日本ではナムコから販売されております。

マーブルマッドネス
ガントレット

しかし、1990年、中村雅也氏が会長に退いたのをきっかけに、関係の解消を実施。ここでアタリとナムコの関係は解消されることになりました。


アタリ子会社テンゲンと任天堂との裁判


アタリジャパンそのものではないのですが、アタリの歴史では「テンゲン」という会社を抜きには語れません。前回抜かしたのもあるので、ここで書いてゆくことにします。

前述の通りアタリは業績不振で分割されてアーケードゲーム部門がアタリゲームスとなりましたが、アタリゲームスは家庭用ゲーム部門子会社として「テンゲン」を設立します。そして1980年代後半にはアメリカでもゲーム機の主流となっていたNES(ファミコンの米国名)に参入します。
しかし、ここで製造ロット数などを巡って任天堂アメリカ(NOA)と確執が生じます。ただ、NESでゲームを動かすためには、任天堂の持っているセキュリティチップが必要。そこでテンゲンはそれのクローンを作り、NESソフトを販売。同時に独占禁止法違反で連邦地方裁判所に任天堂を訴えました。対してNOAも契約違反やコード盗用などでテンゲンに対して訴訟を起こします。

そしてさらに同時期にもうひとつ、アタリも交えたある問題が起こります。それは「テトリス問題」なるもの。
これは当時ソ連で生まれたゲーム、「テトリス」が爆発的なヒットを起こし、日本でもセガがアーケードゲームとして発売し大ヒットとなります。そこでセガは当時自社から発売していたメガドライブでもテトリスを出そうと製造しました。しかし、同時期にライバルであった任天堂は発売する「ゲームボーイ」の目玉として独占的に欲しく、契約を調べまくりました。その結果、実はこの時点でセガが持っているライセンスは、家庭用ゲーム機で発売するテトリスとしては効力を持っていないことが判明します。
セガはテンゲンからテトリスのライセンスを受け、テンゲンはその親会社のアタリゲームスから、そしてそのアタリゲームスはイギリスにあるミラーソフト社から受けており、そのミラーソフトも関係会社であるハンガリーのアンドロメダ・ソフトウェア社から受けたものでした。ちなみにもとの権利は、旧ソ連の外国貿易の窓口期間ELORGが持っていました。

しかし、ここでアンドロメダが大元のELOGEから受けていたテトリスのライセンスはIBMパソコン互換機用にのみで、家庭用には存在しませんでした。しかしここで拡大解釈が起こり、次々とライセンスの橋渡しが行われていたのです。これを調べぬいた任天堂は直接ELORGと契約。そして任天堂側は「テトリスの製造、販売権はテンゲンにない」と、同地裁に販売差し止めの仮処分を申請。それが認められ、アタリやテンゲンはテトリスの権利を認められなくなったばかりか、セガは製造まで終わっていたメガドライブのテトリスは販売できなくなり、ソフトは倉庫に積まれました。

昔からのゲーマー(特にセガファン)にとってはセガテトリス事件として有名な話ですが、こんなところにもアタリが関わっていたということになります。
 そして最初のNOAとテンゲンの裁判ですが、90年代まで続き、結果として任天堂に有利な条件で終結します。

※2014/12/23追記
 その後テトリスについてはその歴史を詳しく書きました。

テトリス~そのシンプルなゲームの深い歴史 : Timesteps

テトリス事件
■参考:テンゲン - Wikipedia


コインいっこいれる


ただ、テンゲンも当然裁判ばかりしていたわけではありません。日本法人も作られ、主に米国で作られたものを移植することになります。特にメガドライブでのリリースは『スラップファイト』など良作が多く、熱心なファンを増やしてゆきます。
しかしゲーマーにとって一番有名なのは、その変な日本語訳でしょう。たとえば『スタンランナー』というゲームでは、INSERT COINを「コインいっこいれる」と訳さなくてもいいのにいちいち変な日本語にしたり、『ピットファイター』というゲームでは、Brutality Bonus"の名前が『残虐行為手当』となっていたりと、コアなファンをある意味虜にします。

Pitfighter


ワーナーインタラクティブへとなり日本撤退


テンゲンはスーパーファミコンの後継次世代機争いの始まる1994年、社名を親会社の名前をつけてタイムワーナーインタラクティブに改め、セガサターンとプレイステーションに参入します。そこで数々のソフトを発売しますが、1997年にタイムワーナーインタラクティブの親会社が代わり、日本からの撤退を決定。その最終作『心霊呪殺師太郎丸』は、隠れた名作ソフトとして評価され、今でもセガサターンソフトの中でプレミアがついています。

さて、そのタイムワーナーインタラクティブに所属していて『心霊呪殺師太郎丸』を制作した井内氏は、当時シューティングゲームの企画があったものの、タイムワーナーインタラクティブの閉鎖で流れてしまいました。しかし氏は元いた株式会社トレジャーに移り、そこでその企画のゲーム『レイディアントシルバーガン』を完成させ、アーケードでリリース、そしてセガサターンにも移植されます。このゲームはセガサターン末期のソフトながら非常に評価が高く、前述の『心霊呪殺師太郎丸』同様、セガサターンソフトのプレミアソフトとして今でも高値がついています。

■参考:アタリジャパン - Wikipedia


アタリジャパン復活と現在


しかしその後、また日本にアタリが登場します。それはテンゲンの親会社であるアタリゲームスではなく、家庭用ゲーム部門を引き継いだアタリコープのほう。
アタリコープはリンクスやジャガーの失敗のあと、あちこちの会社で売却と買収が繰り返されますが、2000年にインフォグラムが買収します。そして同年、日本法人のインフォグラムジャパンが設立。その後2003年、アタリジャパンに社名変更し、ここでアタリジャパンが復活します。以下は当時のニュース。

SBG:アタリジャパン公式ホームページオープン!

ちなみに前述のトレジャーから、『レイディアントシルバーガン』の続編となるシューティング『斑鳩』というシューティングがアーケードでリリース、その後ドリームキャストから発売されますが、それのゲームキューブ版はこのアタリジャパンから発売されています(関係があるのか偶然かは不明)。

ここ数年は音沙汰がなく、ファンをやきもきさせていましたが、一昨年くらいにいきなりアタリ特有の変な日本語訳でサイトが更新されました。

アタリの歴史にまた1ページ!:Runner's High!:So-netブログ

しかし現在、アタリジャパンのサイトに行くと、英語サイトにリダイレクトされます。なんか自然となくなってしまった感じ。まあそのあたりの経緯はゲーム会社の「アタリ」はそれからどうなったのかの最後のほうをみればなんとなく察することができるような気も。

Atari Video Games


とりあえず、現在も本体は存在するわけで。
アタリ自体はいろいろありながらも今も存在しますが、アタリジャパンは再び現れるのでしょうか。そしてその際には先のHP更新で見せたような「コインいっこいれる」みたいにへんな日本語訳を見せつけてくれるのでしょうか。



☆ 参考文献

・赤木真澄『それは「ポン」から始まった-アーケードTVゲームの成り立ち』(アミューズメント通信社)
それは「ポン」から始まった-アーケードTVゲームの成り立ち