あまりゲームに詳しくない人でも、『テトリス』というゲームを知っている人は非常に多いでしょう。ゲーム機で遊んだことのある人も多いでしょうし、今なら携帯電話のアプリとしての定番となっていますね。近年ではグリーなどがCMをよく打っていたのもありますから、おそらく日本人のほとんどがゲーム画面を目にしたことがあるのではないかと。
さて、このテトリス、もともとロシア(当時のソビエト連邦)で生まれたゲームというのも知っている人が多いと思います。しかし、このテトリスの歴史を辿ってみると、企業や国の機関まで動かした激動の歴史が存在するのです。
というわけで、4ブロックの連なりが落ちてきて、一列になると消えるというシンプルなゲームの裏に隠された、非常に深い歴史を辿ってゆこうと思います。
Tetris / Micah Taylor
tetris / Nicolas Esposito
前述の通り、『テトリス』は現在のロシアであるソビエト連邦で生まれました。開発をしたのはアレクセイ・パジトノフという、ソビエト社会主義共和国連邦科学アカデミーに勤めていた人物です(実際は複数名の協力あり)。誕生したのは、1984年6月6日とされています。
テトリスのルールは、正方形を4つ繋げた多角形がブロックが落ちてきて、それを一列に繋げれば消え、上まで積み上がればゲームオーバーという単純に説明出来るものですが、その語源は、正方形4つをつなげた多角形を意味する「テトロミノ」+イメージとしての「テニス」とのことです。
これはもともとは教育用のソフトとして開発されたものですが、それがゲームとして応用され、広まってゆきます。ただし、この時点のテトリスはテトロミのが落ちてきて、それを一列揃えるという原型としては出来ていたものの、ゲームとしてのチューニングはそこまでされておらず、誕生して即ヒットというような、他のゲームのようなパターンにはなりませんでした。あと、これが当時冷戦下のソビエトで開発され、なかなか外に伝わらなかったのも、ブレイクに時間がかかった原因のひとつでしょう(その閉鎖性については後述)。
31/365 - tetris / bunnyhero
先述のソビエト社会主義共和国連邦科学アカデミーは国の機関だったため、テトリスもソ連の機関である外国貿易窓口である外国貿易協会(ELORG)を通して行なわれます。そして海外のメーカーにライセンスがなされ、ソ連国外にゲームとして広まってゆきます。最初はPC向けとして発売されましたが、先述のようにこの頃にはゲームとしてのチューニングがなされておらず、そこまで人気は出ませんでした。
日本にも、1988年末、海外のパソコン版を移植する形で、BPSという会社から 『テトリス』の PC版、それと当時人気の家庭用ハードだったファミリーコンピュータ版が販売されます(下はファミコン版のパッケージ)。
しかし、日本国内で『テトリス』の名前が広まり人気が集まったのは、ほぼ同時期にアーケードゲームとしてセガ・エンタープライゼスよりリリースされたアーケード版の『テトリス』でした。
これは、先に海外で発売されいたアタリ社製のテトリスを受ける形で、アタリの子会社テンゲンからセガがライセンスを供給され、発売したものになります(ここ、厳密には違うのですが後述)。
このアーケード版はエンドレスモードのみの単純なのもでしたが、操作方法(ボタンによる回転方法やレバー下の使い方)などでチューニングがなされており、ゲームとしての面白さを増したものになっていました。ここで人気が爆発して、ゲームセンターでは若者から昼時に背広を着たサラリーマンまで人気を集めることになり、基板の生産が追いつかなかったほどといいます。
ちなみにここでセガ製ではない類似品や、海賊基板も誕生していました。
昨今、テトリスのBGMと言えば、ゲームボーイ版などで使われたロシア民謡(コロブチカ)というイメージを持つ人が多いと思われますが、アーケードファン、セガファンなど、アーケードで使われた音楽のほうがしっくりくるという人もいます(自分もこっち)。
※2016/1/11追記補足
ただし海外(アメリカ)のアーケード市場では、テンゲン(アタリの子会社)から出ていたテトリスの方が多く、そちらのほうが有名だったようです。
SEGA Mega Drive II / nickstone333
このテトリスの大ヒットにより、セガのファンは喜びます。そしてその直前に発売されたセガの家庭用ハード「メガドライブ」のキラーソフトになると、誰もが思っていました。
しかし、ここでテトリスに関する大きな事件が起きます。通称「セガテトリス事件」。
当時セガのライバルであり、ファミコンで覇権を握っていた任天堂はテトリスに注目します。そして、このテトリスを任天堂ハード独自のコンテンツにしたいと考えました。そのため、テトリスに関する権利について、徹底的に調査をします。すると、意外な事実が浮かび上がってきました。
セガはアーケード版のテトリスを発売する際、そのライセンスを「テンゲン」という会社から受けていたのですが、これはテンゲンの親会社であるアタリゲームスから供給されているものでした。そしてそのアタリゲームスはイギリスにあるミラーソフト社からそのライセンスを受けており、そのミラーソフトも関係会社であるハンガリーのアンドロメダ・ソフトウェア社から受けたものでした。ちなみにもとの権利は、旧ソ連の外国貿易窓口である外国貿易協会(ELORG)が持っていました。
つまり、ELORG→アンドロメダ・ソフトウェア社→ミラーソフト社→アタリゲームス→テンゲン→セガという、かなり経由されてライセンスが供給されていたのですね。
ところが、調べた結果、実はELORGからアンドロメダ・ソフトウェア社に供給されたテトリスのライセンスは、IBMパソコン互換機用にのみで、家庭用には存在しませんでした。しかしこのルートで拡大解釈が起こりながら、次々とライセンスの橋渡しが行われていたのです。
つまりセガはテトリスに対する全ライセンスを供給されていると思っていながら、実はIBMパソコン互換機用のみのものしか持っていなかったのです。余談ですが、それまでにファミコンでもBPSという会社が販売していたのですが、この時点ではライセンスは家庭用のものではなかったことになります(後にBPSは任天堂ハードでテトリスを発売します)。
これを調べぬいた任天堂は、直接モスクワに飛び、ELORGと交渉。莫大な許諾料と引き替えに、家庭用の独占ライセンスを手に入れます。
これにより任天堂がテトリスの独占ライセンスを手に入れるのですが、驚いたのはセガやテンゲン、アタリといったメーカーでした。
特にセガは権利は既にあるものと錯覚していて、すでにメガドライブ用のテトリスの製造をしていたのですが、このことによって販売が出来なくなり、そのソフトは売れないまま倉庫で長い間眠ることになりました(ちなみにアタリは海外で発売強行。これで後に裁判で負けることに)。
ちなみに上のライセンスではセガはアーケードの権利も手に入れていなかったため、下手をするとアーケード版もまずかったのですが、任天堂はこの頃すでにアーケードから撤退していたのもあり、そちらのライセンスは入手せず、あとから入手することになります。そして「フラッシュポイント」(後述)などに繋がります。
このことは、当時のセガファンにとって怒りの事件となります。
セガファンの側から見ればの話ですが、それ以前から、任天堂に対してセガのファンメガドライブ発売の折にスーパーファミコンの発表をぶつけられた(しかもスーファミの発売は延期を重ねそれから1年も後だった)件もあり相当な対抗心を持つ人も多かったのですが、このセガテトリス事件は、セガファンが任天堂を嫌う大きな事件となります。この後数年間の間遺恨は消えず、セガファンが任天堂を非難する標語のひとつが、「テトリスを返せ!」となっていた感じです。
経緯を見ると、任天堂が悪というのではなく、セガ(さらにはアタリ・テンゲン)の脇が甘かった側面が強いように思えます。昔からそのへんの脇の甘さがセガが好まれる理由の一つである気もしますが。
ちなみにアタリ及びテンゲンはこのことについて任天堂(正確にはニンテンドー・オブ・アメリカ)に対しては著作権侵害の訴訟をしますが、これは却下され、任天堂が勝訴します。
アタリ及びテンゲンについては以前ちょっと書きましたので(このテトリスの件も少し触れました)以下をどうぞ。
■アタリの日本支社、アタリジャパンはそれからどうなったのか : Timesteps
■参考:ゲーム会社の「アタリ」はそれからどうなったのか : Timesteps
■参考:テトリス事件
Nintendo Gameboy / wwarby
さて、任天堂がそこまでしてテトリスを手に入れたかった理由は何かというと、それはファミコン、スーパーファミコンといった据置機より、1989年4月21日に同社から販売された携帯ゲーム機「ゲームボーイ」のほうにあります。これをゲームボーイのキラーソフトにしたいという任天堂目論見は見事に当たり、ゲームボーイ初期にハードを牽引したソフトとなります。
しかし、テトリスがゲームボーイで果たした功績はただのキラーソフトということだけではありません。というのは、このゲームで採用された「通信対戦」が。後のゲームボーイのみならず、ゲームを大きく引っ張ってゆくことになるので。
ゲームボーイの通信機能は、開発者の横井軍平氏によると、あまりコスト的に高くならないけど、おもしろそうなことが出来そうだからつけたということです。そしてその読みは当り、このテトリスにおいて通信対戦(消したら相手に邪魔なブロックが増える)をさせるという、新たな面白さを生み出します。そしてその後、通信を使ったソフトが徐々に出て来ます。
そして何より、1996年に登場した、モンスターを交換するという形で通信をフルに活かした『ポケットモンスター』が世界的ヒットを巻き起こすことになります。
現在、ソーシャルゲームやすれちがい通信、Wi-fiなど通信を使ったゲームが色々と出ていますが、そのはしりとなったのがこのゲームボーテトリスにおける通信対戦とも言えるのです。
さて、巨大なゲームのヒット作が生まれると、類似品が生まれるのは世の常です。ただ、それが悪いものばかりではなく、似ていても新しい方向性の面白さを引き出すものも多く存在し、それを一つのジャンルとして形成します。スーパーマリオの後のアクション然り、ドラクエの後のRPG然り、ストIIのあとの2D格闘、バーチャファイターのあとの3D格闘しかり(まあ副産物として駄作も多く生まれますけどね)。
というわけで、『テトリス』の後生み出された、「落ちゲー」というジャンルを形成した名作をちょっと見てゆくことにします。
任天堂が1990年に出したもの。開発の中心となったのは、ゲームボーイの生みの親でもある横井軍平氏。さらに音楽は田中宏和氏。
世界的なキャラクターであるマリオがドクターの恰好でカプセルを投げてゆき、中のウイルスを消してゆくタイプの落ちゲー。最初はファミコンでしたが、後にゲームボーイにも移植しヒットします。
ゲーム自体の出来の良さに加え、当時、任天堂がスポンサーをしていたゲーム番組で大会が行なわれていたため、子供にかなり有名なものとなりました。
現在でも、ハードが出る度に色々アレンジが加えられてリリースされる安定ソフトとなっています。
こちらはコンパイルが1991年に出したもの。最初はMSX2向けでしたが、翌年セガ販売でアーケードゲームとして登場しヒット。「ぷよ」を4つくっつけて消すタイプの落ちゲーで、同社のソフト『魔導物語』からのかわいいキャラが有名です。
制作元のコンパイルについては過去書きましたのでそちらで。
■『ぷよぷよ』のコンパイルはそれからどうなったのか : Timesteps
これもテトリス同様、最近でもケータイにプリインストールされるなどして知名度が高いですね。
前述の通り、メガドライブでテトリスが販売できなくなったセガですが、1989年に『フラッシュポイント』というゲームを発表します。基本的にテトリスとシステムは同じですが、枠内に「フラッシュポイント」という点がありまして、そこを消すことでクリアになるというルールでした。ある意味テトリスの別モードですね。
色々な事情で長年家庭用では出ませんでしたが、アーケードではテトリス同様意外と長く置いてありました。
こちらもセガ。1990年にアーケードで登場。様々なカラーの宝石が3個1セットの縦長で連なって落ちてくるものを、列を作って消してゆく落ちゲー。
同じ落ちゲーではあるけど、テトリスとはいろいろと感覚が異なり、また別の人気を生み出しました。これもセガのハードでは必ず移植されています。
メガドライブテトリスを獲得できなかったことでこれが生まれたのかもしれないと思うと、少し感慨深いです。
テトリスの大ヒットを出したアレクセイ・パジトノフ氏の作品はほかにもありまして、特に有名な落ちゲーが『ハットリス』『ボンブリス』。
『ハットリス』は文字通り色々な高さの帽子が落ちてきて、それを5個連ねると消えるというもの。『ボンブリス』はブロックを爆発させて消すというもの。
どちらも世界的大ヒットの『テトリス』や、上記人気の落ちゲーに比べるとマイナーですが、遊べる佳作であったりします。
他、『クレオパトラフォーチュン』とか『対戦ぱずるだま』とかいくらでも出てきますが、あまりに多すぎるので割愛させていただきます。ちなみに落ちゲーはキャラクターを乗っけやすいためか、その当時人気のキャラクターを引っ張ってきて作られるのもけっこう多いですね(ドクターマリオはキャラが一貫してますが)。
Alexey Pajitnov / eunicinha
テトリスが大ヒットしたことによりアレクセイ・パジトノフ氏やほか研究者に莫大な金が入ってきたかというとそうではありません。当時のソ連は社会主義国ですし、パジトノフ氏は国の機関の一員でしたので、その利益は国に吸収されてしまいます。しかし、世界的に有名になったゲームを考え出した功績により、特例としてアメリカへの移住が認められます(当然ソ連に権利は属したままで)。
そして同年、ソ連8月クーデターが起こり、それの失敗により同年末、ソビエト連邦が崩壊。そのことで、テトリスの権利は再びパジトノフ氏の元に戻ってきます。その後1996年、パジトノフ氏はテトリスの権利を管理するため、「ザ・テトリスカンパニー」をシアトルに設立します。
その後パジトノフ氏は1996年にマイクロソフトに入社し、同社初のゲームデザイナーとなりました。現在は退社し、ザ・テトリスカンパニー運営の傍ら、ロシア科学アカデミーに在籍しているとのこと。
先に任天堂が巨額で獲得したテトリスの独占権ですが、ザ・テトリスカンパニー設立の1996年に同社が権利管理を行なうようになったため、ここで解除されました。その結果、プレイステーションやサターンでも発売されていました。そこでは「テトリスの商品化は1プラットフォームにつき1社のみ」とされていたのですが、その後は一つのハードからも複数社にライセンスが与えられているので、これは事実上崩れていると言えます。
尚、先に挙げたファミコンでテトリスを出していたBPSは、その後任天堂のハードでテトリスシリーズなどを販売していましたが、先に紹介したハットリス、ボンブリスなどをリリースしていましたが、2001年に日本法人の解散を発表。現在は存在していません。
■SBG:ビーピーエスが日本法人閉鎖を正式に発表……
Tetris on iPod / dan taylor
テトリスは長い間各種ゲームハードで楽しまれてきましたが、再び大きく注目されることになったのが、モバイル機器普及。まず、iモードなど、携帯電話でゲームが出来るようになった2000年あたりから単純且つ深いテトリスは注目され、アプリケーションとして人気が出ます。さらには、もともとプリインストールされている機種も増えてきました
また、ゲームシステムや操作が単純なことからキーホルダーサイズの液晶ミニゲームとしてテトリスが販売され、学生の授業時間のサボリ道具にもなったりしました。
スマートフォンが強くなった現在でも、アプリケーションとしてほぼどのキャリアでも販売されていますし、最近話題のソーシャルゲームのコンテンツにおいても必ずあるもののひとつとなっています。
現在は、モバイル、ゲーム機などあらゆるハードで必ずと行っていいほど見かけるものとなっています。全部を列挙しようとしたら、すでにカウントできない数になっています(参考までに、主なゲーム用ハードを対象としている『大技林2011』で「テトリス」と検索したら40件出て来ました。一番マイナーなところだと、バーチャルボーイ版かな)。
ちなみに、先に書いたセガテトリスですが、2006年発売がなされました。もちろんメガドラソフトではなくPSソフトですが、ここに15年近くのものが復活したことになります(『フラッシュポイント』も収録)。
またユーザーの腕も上がり続け、超人間的な腕を持つ人も出て来ています。
おそらくテトリスは、オセロ(リバーシ)のようなずっと遊び続けられる存在として定着したのではないかと思います。
10年後、どのようなハードが普及しているのかわかりませんが、その中にもおそらくテトリスは存在しているのではないでしょうか。
Tetris of God (34) / Reijard
//----------------------------
ほか参考
■At 25, Tetris still eyeing growth | Reuters
■テトリス - Wikipedia
■赤木真澄『それは「ポン」から始まった-アーケードTVゲームの成り立ち』(アミューズメント通信社)
■横井軍平・牧野武文 『横井軍平ゲーム館 RETURNS ─ゲームボーイを生んだ発想力』
さて、このテトリス、もともとロシア(当時のソビエト連邦)で生まれたゲームというのも知っている人が多いと思います。しかし、このテトリスの歴史を辿ってみると、企業や国の機関まで動かした激動の歴史が存在するのです。
というわけで、4ブロックの連なりが落ちてきて、一列になると消えるというシンプルなゲームの裏に隠された、非常に深い歴史を辿ってゆこうと思います。
Tetris / Micah Taylor
テトリスの誕生
tetris / Nicolas Esposito
前述の通り、『テトリス』は現在のロシアであるソビエト連邦で生まれました。開発をしたのはアレクセイ・パジトノフという、ソビエト社会主義共和国連邦科学アカデミーに勤めていた人物です(実際は複数名の協力あり)。誕生したのは、1984年6月6日とされています。
テトリスのルールは、正方形を4つ繋げた多角形がブロックが落ちてきて、それを一列に繋げれば消え、上まで積み上がればゲームオーバーという単純に説明出来るものですが、その語源は、正方形4つをつなげた多角形を意味する「テトロミノ」+イメージとしての「テニス」とのことです。
これはもともとは教育用のソフトとして開発されたものですが、それがゲームとして応用され、広まってゆきます。ただし、この時点のテトリスはテトロミのが落ちてきて、それを一列揃えるという原型としては出来ていたものの、ゲームとしてのチューニングはそこまでされておらず、誕生して即ヒットというような、他のゲームのようなパターンにはなりませんでした。あと、これが当時冷戦下のソビエトで開発され、なかなか外に伝わらなかったのも、ブレイクに時間がかかった原因のひとつでしょう(その閉鎖性については後述)。
テトリス、日本へ
31/365 - tetris / bunnyhero
先述のソビエト社会主義共和国連邦科学アカデミーは国の機関だったため、テトリスもソ連の機関である外国貿易窓口である外国貿易協会(ELORG)を通して行なわれます。そして海外のメーカーにライセンスがなされ、ソ連国外にゲームとして広まってゆきます。最初はPC向けとして発売されましたが、先述のようにこの頃にはゲームとしてのチューニングがなされておらず、そこまで人気は出ませんでした。
日本にも、1988年末、海外のパソコン版を移植する形で、BPSという会社から 『テトリス』の PC版、それと当時人気の家庭用ハードだったファミリーコンピュータ版が販売されます(下はファミコン版のパッケージ)。
しかし、日本国内で『テトリス』の名前が広まり人気が集まったのは、ほぼ同時期にアーケードゲームとしてセガ・エンタープライゼスよりリリースされたアーケード版の『テトリス』でした。
これは、先に海外で発売されいたアタリ社製のテトリスを受ける形で、アタリの子会社テンゲンからセガがライセンスを供給され、発売したものになります(ここ、厳密には違うのですが後述)。
このアーケード版はエンドレスモードのみの単純なのもでしたが、操作方法(ボタンによる回転方法やレバー下の使い方)などでチューニングがなされており、ゲームとしての面白さを増したものになっていました。ここで人気が爆発して、ゲームセンターでは若者から昼時に背広を着たサラリーマンまで人気を集めることになり、基板の生産が追いつかなかったほどといいます。
ちなみにここでセガ製ではない類似品や、海賊基板も誕生していました。
昨今、テトリスのBGMと言えば、ゲームボーイ版などで使われたロシア民謡(コロブチカ)というイメージを持つ人が多いと思われますが、アーケードファン、セガファンなど、アーケードで使われた音楽のほうがしっくりくるという人もいます(自分もこっち)。
※2016/1/11追記補足
ただし海外(アメリカ)のアーケード市場では、テンゲン(アタリの子会社)から出ていたテトリスの方が多く、そちらのほうが有名だったようです。
任天堂のテトリス独占販売権取得とセガテトリス事件
SEGA Mega Drive II / nickstone333
このテトリスの大ヒットにより、セガのファンは喜びます。そしてその直前に発売されたセガの家庭用ハード「メガドライブ」のキラーソフトになると、誰もが思っていました。
しかし、ここでテトリスに関する大きな事件が起きます。通称「セガテトリス事件」。
当時セガのライバルであり、ファミコンで覇権を握っていた任天堂はテトリスに注目します。そして、このテトリスを任天堂ハード独自のコンテンツにしたいと考えました。そのため、テトリスに関する権利について、徹底的に調査をします。すると、意外な事実が浮かび上がってきました。
セガはアーケード版のテトリスを発売する際、そのライセンスを「テンゲン」という会社から受けていたのですが、これはテンゲンの親会社であるアタリゲームスから供給されているものでした。そしてそのアタリゲームスはイギリスにあるミラーソフト社からそのライセンスを受けており、そのミラーソフトも関係会社であるハンガリーのアンドロメダ・ソフトウェア社から受けたものでした。ちなみにもとの権利は、旧ソ連の外国貿易窓口である外国貿易協会(ELORG)が持っていました。
つまり、ELORG→アンドロメダ・ソフトウェア社→ミラーソフト社→アタリゲームス→テンゲン→セガという、かなり経由されてライセンスが供給されていたのですね。
ところが、調べた結果、実はELORGからアンドロメダ・ソフトウェア社に供給されたテトリスのライセンスは、IBMパソコン互換機用にのみで、家庭用には存在しませんでした。しかしこのルートで拡大解釈が起こりながら、次々とライセンスの橋渡しが行われていたのです。
つまりセガはテトリスに対する全ライセンスを供給されていると思っていながら、実はIBMパソコン互換機用のみのものしか持っていなかったのです。余談ですが、それまでにファミコンでもBPSという会社が販売していたのですが、この時点ではライセンスは家庭用のものではなかったことになります(後にBPSは任天堂ハードでテトリスを発売します)。
これを調べぬいた任天堂は、直接モスクワに飛び、ELORGと交渉。莫大な許諾料と引き替えに、家庭用の独占ライセンスを手に入れます。
これにより任天堂がテトリスの独占ライセンスを手に入れるのですが、驚いたのはセガやテンゲン、アタリといったメーカーでした。
特にセガは権利は既にあるものと錯覚していて、すでにメガドライブ用のテトリスの製造をしていたのですが、このことによって販売が出来なくなり、そのソフトは売れないまま倉庫で長い間眠ることになりました(ちなみにアタリは海外で発売強行。これで後に裁判で負けることに)。
ちなみに上のライセンスではセガはアーケードの権利も手に入れていなかったため、下手をするとアーケード版もまずかったのですが、任天堂はこの頃すでにアーケードから撤退していたのもあり、そちらのライセンスは入手せず、あとから入手することになります。そして「フラッシュポイント」(後述)などに繋がります。
このことは、当時のセガファンにとって怒りの事件となります。
セガファンの側から見ればの話ですが、それ以前から、任天堂に対してセガのファンメガドライブ発売の折にスーパーファミコンの発表をぶつけられた(しかもスーファミの発売は延期を重ねそれから1年も後だった)件もあり相当な対抗心を持つ人も多かったのですが、このセガテトリス事件は、セガファンが任天堂を嫌う大きな事件となります。この後数年間の間遺恨は消えず、セガファンが任天堂を非難する標語のひとつが、「テトリスを返せ!」となっていた感じです。
経緯を見ると、任天堂が悪というのではなく、セガ(さらにはアタリ・テンゲン)の脇が甘かった側面が強いように思えます。昔からそのへんの脇の甘さがセガが好まれる理由の一つである気もしますが。
ちなみにアタリ及びテンゲンはこのことについて任天堂(正確にはニンテンドー・オブ・アメリカ)に対しては著作権侵害の訴訟をしますが、これは却下され、任天堂が勝訴します。
アタリ及びテンゲンについては以前ちょっと書きましたので(このテトリスの件も少し触れました)以下をどうぞ。
■アタリの日本支社、アタリジャパンはそれからどうなったのか : Timesteps
■参考:ゲーム会社の「アタリ」はそれからどうなったのか : Timesteps
■参考:テトリス事件
テトリスと通信機能
Nintendo Gameboy / wwarby
さて、任天堂がそこまでしてテトリスを手に入れたかった理由は何かというと、それはファミコン、スーパーファミコンといった据置機より、1989年4月21日に同社から販売された携帯ゲーム機「ゲームボーイ」のほうにあります。これをゲームボーイのキラーソフトにしたいという任天堂目論見は見事に当たり、ゲームボーイ初期にハードを牽引したソフトとなります。
しかし、テトリスがゲームボーイで果たした功績はただのキラーソフトということだけではありません。というのは、このゲームで採用された「通信対戦」が。後のゲームボーイのみならず、ゲームを大きく引っ張ってゆくことになるので。
ゲームボーイの通信機能は、開発者の横井軍平氏によると、あまりコスト的に高くならないけど、おもしろそうなことが出来そうだからつけたということです。そしてその読みは当り、このテトリスにおいて通信対戦(消したら相手に邪魔なブロックが増える)をさせるという、新たな面白さを生み出します。そしてその後、通信を使ったソフトが徐々に出て来ます。
そして何より、1996年に登場した、モンスターを交換するという形で通信をフルに活かした『ポケットモンスター』が世界的ヒットを巻き起こすことになります。
現在、ソーシャルゲームやすれちがい通信、Wi-fiなど通信を使ったゲームが色々と出ていますが、そのはしりとなったのがこのゲームボーテトリスにおける通信対戦とも言えるのです。
テトリスに続いた落ちものゲームの名作たち
さて、巨大なゲームのヒット作が生まれると、類似品が生まれるのは世の常です。ただ、それが悪いものばかりではなく、似ていても新しい方向性の面白さを引き出すものも多く存在し、それを一つのジャンルとして形成します。スーパーマリオの後のアクション然り、ドラクエの後のRPG然り、ストIIのあとの2D格闘、バーチャファイターのあとの3D格闘しかり(まあ副産物として駄作も多く生まれますけどね)。
というわけで、『テトリス』の後生み出された、「落ちゲー」というジャンルを形成した名作をちょっと見てゆくことにします。
『ドクターマリオ』(任天堂)
任天堂が1990年に出したもの。開発の中心となったのは、ゲームボーイの生みの親でもある横井軍平氏。さらに音楽は田中宏和氏。
世界的なキャラクターであるマリオがドクターの恰好でカプセルを投げてゆき、中のウイルスを消してゆくタイプの落ちゲー。最初はファミコンでしたが、後にゲームボーイにも移植しヒットします。
ゲーム自体の出来の良さに加え、当時、任天堂がスポンサーをしていたゲーム番組で大会が行なわれていたため、子供にかなり有名なものとなりました。
現在でも、ハードが出る度に色々アレンジが加えられてリリースされる安定ソフトとなっています。
『ぷよぷよ』(コンパイル)
こちらはコンパイルが1991年に出したもの。最初はMSX2向けでしたが、翌年セガ販売でアーケードゲームとして登場しヒット。「ぷよ」を4つくっつけて消すタイプの落ちゲーで、同社のソフト『魔導物語』からのかわいいキャラが有名です。
制作元のコンパイルについては過去書きましたのでそちらで。
■『ぷよぷよ』のコンパイルはそれからどうなったのか : Timesteps
これもテトリス同様、最近でもケータイにプリインストールされるなどして知名度が高いですね。
『フラッシュポイント』(セガ)
前述の通り、メガドライブでテトリスが販売できなくなったセガですが、1989年に『フラッシュポイント』というゲームを発表します。基本的にテトリスとシステムは同じですが、枠内に「フラッシュポイント」という点がありまして、そこを消すことでクリアになるというルールでした。ある意味テトリスの別モードですね。
色々な事情で長年家庭用では出ませんでしたが、アーケードではテトリス同様意外と長く置いてありました。
『コラムス』(セガ)
こちらもセガ。1990年にアーケードで登場。様々なカラーの宝石が3個1セットの縦長で連なって落ちてくるものを、列を作って消してゆく落ちゲー。
同じ落ちゲーではあるけど、テトリスとはいろいろと感覚が異なり、また別の人気を生み出しました。これもセガのハードでは必ず移植されています。
メガドライブテトリスを獲得できなかったことでこれが生まれたのかもしれないと思うと、少し感慨深いです。
ハットリス・ボンブリス
テトリスの大ヒットを出したアレクセイ・パジトノフ氏の作品はほかにもありまして、特に有名な落ちゲーが『ハットリス』『ボンブリス』。
『ハットリス』は文字通り色々な高さの帽子が落ちてきて、それを5個連ねると消えるというもの。『ボンブリス』はブロックを爆発させて消すというもの。
どちらも世界的大ヒットの『テトリス』や、上記人気の落ちゲーに比べるとマイナーですが、遊べる佳作であったりします。
他、『クレオパトラフォーチュン』とか『対戦ぱずるだま』とかいくらでも出てきますが、あまりに多すぎるので割愛させていただきます。ちなみに落ちゲーはキャラクターを乗っけやすいためか、その当時人気のキャラクターを引っ張ってきて作られるのもけっこう多いですね(ドクターマリオはキャラが一貫してますが)。
アレクセイ・パジトノフ氏のその後
Alexey Pajitnov / eunicinha
テトリスが大ヒットしたことによりアレクセイ・パジトノフ氏やほか研究者に莫大な金が入ってきたかというとそうではありません。当時のソ連は社会主義国ですし、パジトノフ氏は国の機関の一員でしたので、その利益は国に吸収されてしまいます。しかし、世界的に有名になったゲームを考え出した功績により、特例としてアメリカへの移住が認められます(当然ソ連に権利は属したままで)。
そして同年、ソ連8月クーデターが起こり、それの失敗により同年末、ソビエト連邦が崩壊。そのことで、テトリスの権利は再びパジトノフ氏の元に戻ってきます。その後1996年、パジトノフ氏はテトリスの権利を管理するため、「ザ・テトリスカンパニー」をシアトルに設立します。
その後パジトノフ氏は1996年にマイクロソフトに入社し、同社初のゲームデザイナーとなりました。現在は退社し、ザ・テトリスカンパニー運営の傍ら、ロシア科学アカデミーに在籍しているとのこと。
テトリス版権のその後
先に任天堂が巨額で獲得したテトリスの独占権ですが、ザ・テトリスカンパニー設立の1996年に同社が権利管理を行なうようになったため、ここで解除されました。その結果、プレイステーションやサターンでも発売されていました。そこでは「テトリスの商品化は1プラットフォームにつき1社のみ」とされていたのですが、その後は一つのハードからも複数社にライセンスが与えられているので、これは事実上崩れていると言えます。
尚、先に挙げたファミコンでテトリスを出していたBPSは、その後任天堂のハードでテトリスシリーズなどを販売していましたが、先に紹介したハットリス、ボンブリスなどをリリースしていましたが、2001年に日本法人の解散を発表。現在は存在していません。
■SBG:ビーピーエスが日本法人閉鎖を正式に発表……
モバイルへの広がり
Tetris on iPod / dan taylor
テトリスは長い間各種ゲームハードで楽しまれてきましたが、再び大きく注目されることになったのが、モバイル機器普及。まず、iモードなど、携帯電話でゲームが出来るようになった2000年あたりから単純且つ深いテトリスは注目され、アプリケーションとして人気が出ます。さらには、もともとプリインストールされている機種も増えてきました
また、ゲームシステムや操作が単純なことからキーホルダーサイズの液晶ミニゲームとしてテトリスが販売され、学生の授業時間のサボリ道具にもなったりしました。
スマートフォンが強くなった現在でも、アプリケーションとしてほぼどのキャリアでも販売されていますし、最近話題のソーシャルゲームのコンテンツにおいても必ずあるもののひとつとなっています。
たぶんこれからも存在し続けるテトリス
現在は、モバイル、ゲーム機などあらゆるハードで必ずと行っていいほど見かけるものとなっています。全部を列挙しようとしたら、すでにカウントできない数になっています(参考までに、主なゲーム用ハードを対象としている『大技林2011』で「テトリス」と検索したら40件出て来ました。一番マイナーなところだと、バーチャルボーイ版かな)。
ちなみに、先に書いたセガテトリスですが、2006年発売がなされました。もちろんメガドラソフトではなくPSソフトですが、ここに15年近くのものが復活したことになります(『フラッシュポイント』も収録)。
またユーザーの腕も上がり続け、超人間的な腕を持つ人も出て来ています。
おそらくテトリスは、オセロ(リバーシ)のようなずっと遊び続けられる存在として定着したのではないかと思います。
10年後、どのようなハードが普及しているのかわかりませんが、その中にもおそらくテトリスは存在しているのではないでしょうか。
Tetris of God (34) / Reijard
//----------------------------
ほか参考
■At 25, Tetris still eyeing growth | Reuters
■テトリス - Wikipedia
■赤木真澄『それは「ポン」から始まった-アーケードTVゲームの成り立ち』(アミューズメント通信社)
■横井軍平・牧野武文 『横井軍平ゲーム館 RETURNS ─ゲームボーイを生んだ発想力』